西暦1019年と言うから今から1000年前、平安時代の真っただ中に、「刀伊(とい)」と言う外敵集団が九州に侵攻して来た。
日本の歴史を学ぶとき、鎌倉時代の「元寇」については必ず習いますが、この大事件については余り習ったことがないですね。
その理由は、蒙古襲来にくらべ外敵集団の規模が小さかったであろうことと、蒙った被害も少なかっただろうと言うことではないかと思いますが、今回、読者の皆さまと、この事件についてもう少し詳しく調べてみましょう。
目次
刀伊とは何者か
「刀伊(とい)」とは聞きなれない言葉ですが、歴史書を調べてみると、「高麗」(今の朝鮮半島にあった国)の人々が高麗以東の種族を東側の夷狄(いてき=蛮族)、すなわち「東夷」と呼んでいたのに対し、日本の同じ発音の文字を充てて、「toi」すなわち「刀伊」と書いたと言われています。
韓国語で「東」は「tong]と発音する。したがって、正確には「toi]ではなく、「tong-i」に近い発音だったと考えられます。
朝鮮半島の北部の東側とは、現在の大陸の日本海沿岸、ウラジオストック辺りに掛けての地域で、この一帯に当時は女真族の一部が住んでいた。
平安時代に九州地方に押し寄せてきた海賊は、この女真が主力であり、50艘余りの船に3000人が乗り込み、1019年の3月から4月にかけて、対馬~壱岐を襲い、狼藉を尽くしたのち筑前(福岡県)沿岸に侵攻した。
因みに女真人は12世紀に「金王朝」(1115年~1234年 今の中国東北部に建国 モンゴル帝国に滅ぼされる)、そして17世紀には満州族として「清帝国」を建国する民族のことです。
刀伊の入寇を阻止した立役者 さがな者・藤原隆家
「さがな者」とは現代風に言えば、「暴れん坊で、たちの悪い不良」と言った意味である。
では、さがな者と言われた藤原隆家とはどのような人物なのでしょうか。
刀伊軍が九州を襲ったころは、中央の朝廷では藤原道長が隆盛を極め、その絶頂期でした。
藤原隆家はもともと摂政・関白も輩出した「中関白家(なかのかんぱくけ)」の出身で、その父・藤原道隆は道長の兄弟。すなわち、隆家は道長の甥にあたります。
熾烈な権力闘争の末、道長に敗れた中関白家の暴れん坊の隆家は、傷を患っていた眼の治療で、九州に居た中国からの名医の診療を受けるためと言う理由で、太宰府に太宰権帥(長官)として赴任となったが、今でいう事実上の左遷人事でした。
しかし、凡庸なお公家さんが長官に就いたのではなく、ちまたで「さがな者」と畏怖される気骨者の隆家が統治していたことが幸いし、彼の総指揮のもと、激しい攻防戦の末、刀伊軍を撤退せしめたのでした。
戦闘の推移
刀伊の軍勢は1019年3月28日に対馬に襲来し、対馬のあと4月7日から壱岐に侵攻。
蹂躙の限りを尽くし、4月8日には博多湾の能古島(のこのしま)に上陸し、侵攻の拠点とした。
刀伊軍は9日には博多に侵攻して筥崎宮を焼こうとしたが、藤原隆家とその傘下の大蔵種材(おおくらのたねき)が率いる防衛軍の奮戦で逆に退却を余儀なくされた。
その後、矛先を変え、4月13日には肥前の国(現在の佐賀県と対馬、壱岐を除く長崎県)の松浦を襲ったが、太宰府からの事前の指示で、防衛を固めていた松浦軍により撃退され、対馬を再侵攻したあと、朝鮮半島へ撤退した。
朝鮮半島でも沿岸地域で同様の略奪を行ったが、高麗水軍により再び撃退されたとのことである。
今に残された「刀伊の入寇」についての記録 藤原実資が著した「小右記」
1000年もの前の事件ですが、当時の記録が藤原実資(さねすけ)と言う、隆家が信頼して私信を送った人物の日記「小右記」に詳しく書き残されています。
この藤原実資と言う人物ですが、彼の系譜を見てみると「藤原北家・小野宮流」と言う元々藤原一門の宗家とも言える有力公家の嫡流であり、道長全盛の時代にも権力に与せず筋を通した人物で、やがて従一位・右大臣まで昇りつめ、その学識の高さから「賢人右府」とも呼ばれた、当代随一のインテリでした。
その著「小右記」は実資の日記ですが、道長・頼通親子が全盛期の平安中期の、社会・政治・朝廷についての詳細な著述があり、当時を知るうえで貴重な文献となっています。
「小右記」には藤原道長が詠んだ有名な歌
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
が記されていることで、つとに有名です。
隆家はもちろん、中央政府に対して賊の襲来を告げる便を早馬で送ったが、中央は機敏に対応してくれないだろうと考え(その通りだったが)、同時に気心の知れた実資にも詳しい内容を書き留めて私信で送ったのでしょう。
おかげで後世の我々も、当時の経緯を詳しく知ることができます。
結び
道長の政権はこの九州における外敵の侵入に対して、まことに鈍感と言うか殆ど危機意識がなく、また賊を追い払ったあとの戦功についてもうやむやになりかけ、実資の直言によってやっと奮戦した大蔵種材たちに褒美がでたとのことです。
それにしても、「刀伊」という海賊の集団が九州に襲来したとき、たまたま太宰府の長官が、藤原隆家という武辺の公家であったこと。その襲来の経緯と顛末を、隆家が信頼する藤原実資というインテリ貴族の日記に書き留められたことにより、後世の我々が知ることが出来ると言う、歴史の偶然と言うか、幸運に感謝する次第したい思いです。
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